Diary 2008. 7
メニューに戻る
7月1日 (火)  ガハハハ

世界遺産指定されているフィレンツェの大聖堂に記念?の落書きをした日本人がいたという報道で、やり玉に挙げられた者と免れたものとでは、その後の人生での影響は、かなり違うだろう。
しかし、観光にやってくる者たちがデジタルカメラ片手にうじゃうじゃと四六時中居るのも離れて観ると、落書きより酷く思える。
その先頭に立って商う、ツアコンや旅行業者が真っ先に謝罪しなくてはいけない問題だろう。
善行と悪行の区別がつかない者に教えることは大切なことで、今回の世界遺産だから記念書きをしてしまった者が、大阪のアメリカ村などでシャッターに落書きをしたり、電柱に張り紙をする業者には成らないだろう。

かつては六甲山の道やガードレールや壁に「○○参上!見参!」と暴走族の名をデカデカと書いてたのを思い出す。
つい最近では、同じく世界遺産に指定された白川郷にやって来た観光客が茅葺きの一般民家の庭に入り、シートを広げて家族で仲良くお弁当を食べていた。
家の窓を開けた住民は、その光景に唖然となったという。

そもそも日本は知らなければ、結構失礼をやってしまう国民性があるのだから、その辺りからまず何とかしなければいけないのだろう。


7月6日 (日)  やっぱりアカンやん!

(いまさら言うのもなんだが)

最近の報道では見かけなくなった「お金をお金で儲ける」者、村上さんやホリエモン。
もちろん犯罪者扱いされてない貸し金業者の親玉である銀行も、生産や加工を伴わず、お金を稼ぐのはいけない行為なのだということをもう少し分かって欲しい。

「お金を儲けるのはそんなに悪いことですか?僕はそうは思いません」とは記者会見で投げかけた村上氏の言葉だ。
(僕はそのとき、儲け方と使い道が重要だと記したのだが)

現在、資源を漁って稼ぐ世界の国々で暴動が起きているのは、「格差」が一番の原因で、金品で潤ってない頃の方が平和だった。

世界に蔓延る投資家たちや、国の資産を「自分たちのモノ」と勘違いしている政府が、「顔が見えない」のをいいことに、このような事態を生んでいるが責任を取ろうとはしないのが原因だ。

過去の報道でも分かるように、悪人は悪事に気付かず、「そんなことありません」「重々承知していますから」と、さらっと言ってのけるのだ。

どんな民族でも格差社会で生活苦に陥ったり、原因が政治にあると分かれば、必ず暴動は起きるのだ。

そのことに気付かず「金」を掴んだ者たちの責任は多大である。


7月12日 (土)  文部科学省と教育委員会

文部科学省と教育委員会があるように、各省庁は縦割り行政だからいかんのだと、よく言われる。
しかし、その縦割りの中にもまだ「上下割り」という壁が存在することが、今回の大分県教育委員会の不正問題で明らかになった。

ヤンキー先生のように、いくら熱血で正義感が強い議員が文部科学省の担当になっても、下部組織の教育委員会が聞く耳を持たないのだから、どうしようもない。
そればかりか、まるで個人商店のように小さなグループに分かれてしまっているのが、厄介な現状だ。

報道では「教育委員会の職員になるのに議員からの口利きで」とあるが、
元来、口利きは悪い制度ではないと思う。
ペーパー試験だけで採用するより、向き不向きを判断して「この人なら間違いないよ」と薦める者が関係者に居れば、それに越したことはない。
いけないのは、口利きでお金を払ったり受け取ったりするのがオカシい出来事であり、それは完全な悪事なのだ。

こんな不透明な行政は、どの分野においても決して許されないことだから、
まずは、その囲いの中で対立する者同士の存在を浮き彫りにして、
物事の善悪をはっきりさせなければ、前へ進まないと思う。


7月14日 (月)  また東京オリンピック?

1964年に日本で初のオリンピックが開催された。
当時は各家庭にテレビの普及も伴い、日本国民が注目した。
(当時、神戸から選手村へ牛肉が運ばれた)

その後、冬季オリンピックが札幌で開かれたのだが、当時小学生だった僕はジャンプ競技しか覚えていないくらいの注目度だった。

オリンピックも遠足も、始まるまでが楽しかったり躍起になるのだが、終わってみれば疲れが残るし、その次の何も無さ生活がだる〜く襲ってくるのだ。

日本で2回目の冬季オリンピックが開かれた長野の跡を見てみると、やっぱり不況は起こっているし、当時作られた建造物も利用できてないのが現状だ。

そのオリンピックを「一国の行事だ」と石原都知事は、まるで国民を代表するかのように述べるが、国をあげての行事なら、またぞろ東京でなくてもよかろう。
かなり素晴らしい感覚をお持ちの石原知事も、最近はお年のせいか興奮すると自分の都合の良いように難しい言葉を並べ立て、辻褄の合わない言動につい暴走してしまう傾向が顕れている。

オリンピック程の行事は、かつての東京やソウルのように、世界へ名乗りを挙げるチャンスとしてのきっかけにはなるだろうと考えられるが、そこそこ国際化された今の日本には、大した効力は示さないものである。
(後片づけの方が大変なのだ)

そもそもオリンピックの招致に立候補し、IOCに選んで貰おうとする考え方がビジネス化を生じさせ、金権オリンピックを作ってしまうのであって、IOCは立候補国が無くとも4年に一回はどこかで開催しないといけないのだから、「お願いだから貴国でやらせてください」と頼みに来るまで放っておいた方が良いのである。
とかく権力を持った人間は、金に目が眩み過ぎるのだ。

20080714-1.jpg



7月20日 (日)  サブプライムローン問題

 北方四島(歯舞、色丹、択捉、国後)や竹島の領土と海域を争う問題を、一般国民が忘れた頃に報道される。

 確かにどちらも大きな問題だと思うけれど、地図で見てみると竹島の方は海面からチョンと出ているだけ。

 元々海の中では地面がつながってるのに、どうして海面から出ている部分だけ領土として争うのだろう。海水が無ければいわゆる山の頂上なのに。
 陸地でも領土は山の頂上を基点に考えているのだろうか?

 普通に考えれば、裕福な方が貧しい方へ譲ればいいのだと思う。
 
 韓国もロシアも十数年前までは貧しいと言われていたが、今や日本をしのぐ成長を見せている。

 もう少し経てば、日本やアメリカへ援助する方に廻っているかも知れない

20080720-1.jpg



7月25日 (金)  働く人の手

「その人の手を見ればその人の職業が分かる」というほど、多くの人の手には人生の遍歴、跡が残るものだ。
もちろん隠れているだけで他の場所にも顕れるが、手を隠す人は少ないのでそういうのだろう。

見えない部分で言うと、心や脳も遍歴が残る大切な部分だ。
今回の東北地方で続いたマグニチュード7に近い地震の取材でも地元民は「先月の地震で経験したのか、二回目の方が慌てなかった」とい言葉が多かった。

そこから考えると、耐震、免震の備えは必要だが、避難するときに持って出る物を常に枕元へ置いて寝るというのは如何なものかと思う。
それを持って、いざ避難所へ駆け込んだは良いが、全員が持っていないと結局は「自分だけぇ〜?」と言われるのが関の山だ。

毎度言っていることだが、天災が来たら人間はそれを甘んじて受けるしかなく、災害が過ぎ去った後をどうするか考えて生きて行くのが賢明なことである。

20080725-1.jpg



7月26日 (土)  ルパン三世

2008年の新作として金曜ロードショウーで放送されたルパン三世を久しぶりに観た。
テレビ放送のシリーズしか好きではないので宮崎駿などの作品は悲しいの一言に尽きる。
中でも声優の山田康夫が亡くなってルパンを栗田貫一が努めるようになり、ますます初期のルパン三世とかけ離れていった。
(栗貫は一所懸命にやってくれているのは嬉しいが、似せて作るならいっそのこと全国公募で選出したほうがソックリな者がいるのでは?と思う)

しかし今回の放映を観てもっとショックだったのが、各声優の老齢化に伴う声のハリと艶の無さが一番残念に聞こえる。

銭形警部の納谷悟朗は全く元気が無く、しかも入れ歯の調子かなんだか分からんが喋ると空気がもれもれで、いかにも「お爺さん」といった感じだ。
お爺さんといえば、僕の大好きな次元役の小林清志も歯切れが悪く、スローで喋る口元がおぼつかないのが可哀想にまで思えるほど。
早撃ちの名手が息切れしそうな声で喋るのは本当に残念だ。

20080726-1.jpg



7月30日 (水)  壮絶だった母の人生

「絶対病気には負けない!」
僕の母の口癖だった。

32歳で一番下の弟を産むとき、母が白血病であることが判った。
「産むと母体がもたないかも知れない」と産婦人科医に言われが、自分よりも「この子の命をお願いします」と言って死を覚悟で出産に踏み切った母。

出産後ほどなくして好中球性の白血病が悪化。
入院と手術を余儀なくされた。
一日をまたぐ3度の大開腹手術に耐え、母は一命を取り留めたが余命は2年内と告げられ、そこから母の闘病生活は始まった。

それから6度は生死を分ける入院をしている。
一般治療を含むと数十回の入退院を繰り返してきた。
僕が高三の時に運転免許を取ったのも救急車より早く病院へ母を連れていけると思ったからだ。

(闘病以外のことはここでは書かないが、母の残した功績は多大なものがあるとだけ言っておこう)

それから30数年が経ち、最後の闘病生活へとなった。

入院最後の方では食べ物を口まで運んだが、その口を開ける力さえ残ってなかった。
身長150cm体重40kgの元々小柄な母だったが最後の入院の時は、20数kgにまで減っていた。
どんなことがあっても気丈に振る舞う鉄火肌の母だっただけに「痛い、苦しい」とこぼす言葉を聞くのがとても辛く、こんな母は見たこともなかった。

2003年から入退院を繰り返し、2005年の1月に最初の心停止でマッサージを受け、何とか意識は回復。
容態が悪化してからは毎日といっていいほど病院へ通ったが、担当の医師も僕も忙しく、刻々と変化する母の病状に対する処置の打ち合わせなどを回診の時刻まで待っていられなかったので、毎朝8時頃の病院がスタートする前に、その日の報告や当日の処置方法などを担当医の計らいで行うようにした。

一度は一般病棟に戻れたものの、3月に容態が急変し、2回目のCPUでの治療が開始された。
その後、弟たちや叔父さんと交代で泊まり、付き添うようにしていたのだが、翌4月に三度めの心停止が起こり、兄弟三人が見守る中、深夜に息を引き取った。

「残念でした」と深く医師は頭を下げて言ってくれた。
「カリウムの数値が11を越えて生きている人を僕は看たことがありませんでした、お母さんの生命力には感動しました」とも。

母が逝ってから今もなお思うことが月並みかも知れないが「親孝行は出来たのか?」ということだ。

今は写真の母に手を合わせることしか出来ない。


2008/7
SuMoTuWeThFrSa
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

前月     翌月