7月30日 (水)  壮絶だった母の人生

「絶対病気には負けない!」
僕の母の口癖だった。

32歳で一番下の弟を産むとき、母が白血病であることが判った。
「産むと母体がもたないかも知れない」と産婦人科医に言われが、自分よりも「この子の命をお願いします」と言って死を覚悟で出産に踏み切った母。

出産後ほどなくして好中球性の白血病が悪化。
入院と手術を余儀なくされた。
一日をまたぐ3度の大開腹手術に耐え、母は一命を取り留めたが余命は2年内と告げられ、そこから母の闘病生活は始まった。

それから6度は生死を分ける入院をしている。
一般治療を含むと数十回の入退院を繰り返してきた。
僕が高三の時に運転免許を取ったのも救急車より早く病院へ母を連れていけると思ったからだ。

(闘病以外のことはここでは書かないが、母の残した功績は多大なものがあるとだけ言っておこう)

それから30数年が経ち、最後の闘病生活へとなった。

入院最後の方では食べ物を口まで運んだが、その口を開ける力さえ残ってなかった。
身長150cm体重40kgの元々小柄な母だったが最後の入院の時は、20数kgにまで減っていた。
どんなことがあっても気丈に振る舞う鉄火肌の母だっただけに「痛い、苦しい」とこぼす言葉を聞くのがとても辛く、こんな母は見たこともなかった。

2003年から入退院を繰り返し、2005年の1月に最初の心停止でマッサージを受け、何とか意識は回復。
容態が悪化してからは毎日といっていいほど病院へ通ったが、担当の医師も僕も忙しく、刻々と変化する母の病状に対する処置の打ち合わせなどを回診の時刻まで待っていられなかったので、毎朝8時頃の病院がスタートする前に、その日の報告や当日の処置方法などを担当医の計らいで行うようにした。

一度は一般病棟に戻れたものの、3月に容態が急変し、2回目のCPUでの治療が開始された。
その後、弟たちや叔父さんと交代で泊まり、付き添うようにしていたのだが、翌4月に三度めの心停止が起こり、兄弟三人が見守る中、深夜に息を引き取った。

「残念でした」と深く医師は頭を下げて言ってくれた。
「カリウムの数値が11を越えて生きている人を僕は看たことがありませんでした、お母さんの生命力には感動しました」とも。

母が逝ってから今もなお思うことが月並みかも知れないが「親孝行は出来たのか?」ということだ。

今は写真の母に手を合わせることしか出来ない。