Diary 2016. 4
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4月4日 (月)  春爛漫

今年は予想通りの開花となった桜前線。
六甲山以外の神戸でも今週が見頃だが、先日の花見客がこんなことを言っていたのが少し気になった。

「このゴールデンウィークは何処か行く?」

一見何が気になる?という内容だが、イベント中に次のイベントを考えるのが問題で、花見の席でゴールデンウィークのことを話題にするのは「興醒め」だということに気づいてない。

先を考えるのは大事なことだが、今を楽しめていないのはもっと大事だということを忘れている。

この人に尋ねても「花見は充分に楽しんでるよ」と言うに違いないが、この薄っぺらさが世の中のイライラに拍車をかけているのだ。

あまりに情報過多な現代が作った、この「次は何?」症候群は、ページをパラパラと捲るだけで頭に何も残らないといった現象で、充実感を減らしてしまう悪性腫瘍みたいなもの。

「知らないと恥ずかしい」と言うが「知ってる方が恥ずかしい」ということも多くある。


4月15日 (金)  被災の法則

熊本県を中心に起きた大地震は、またもや全く予知が出来なかった。

我々はすぐにマグニチュードや震度、被災者数で規模を比べてしまうが、今回はその広さに驚いた。

もちろん被災は少ないほど良い。
物も大事だが先ずは人である。

規模が小さければ周囲の助かった者が救いの手を差し伸べることが出来やすいからだ。

自衛隊もボランティアも医療も数に限りがあるので、場所や時刻でも大きな差が出る。

被災報道を見た者が「次は自分たちのところか?」と不安になる。

神戸に住む我々も災害報道がある度に、自分たちの被災時を通して関東大震災ぐらいまで遡って考えてしまう。

「もっと準備をしておけば良かった」と思う。

火事場泥棒のような奴も人の不幸を機に儲けを狙う奴も出てくる。

避難所や至る所でストレスでの揉め事が起きる。

誰かの責任を問おうとする。

そして次の被災を想像してしまう。


4月16日 (土)  被災時の不都合

強い地震が群発している熊本。

「この後に大きな地震がくれば」と昨日地震学者が語っていたように、本震が前震となった。

地震学者に「これで一段落するだろう」と言われても、当事者や心配性な人は気が気でないだろう。

我々も同じだが、ヘリコプターからの中継を見ていると、山崩れの裾で倒壊した建物からの救助活動が、まるで蟻のように見えるほど大自然に対する人間の非力さが伝わってくる。

そのヘリコプターの音や報道のカメラが、皮肉にも作業の遅れや避難生活に支障を来すことも多々ある。救助された人を車へ運ぶのに、何人もの隊員らが被害者をシートで囲んでいる中継を見るが、本来カメラさえ無ければ作業の無駄が省け、隊員が他の場所へ行けるのだ。

生き埋めになった人の声や音を頼りに救助活動している上を、無情にもヘリコプターの騒音が邪魔をしてしまう。

「もうちょっと寄ってください」と簡単にスタジオから言うが、カメラがズーム限界ならばヘリコプターの高度を下げるしかない。

現場の空気を読んだリポーターや操縦士が、「これ以上寄れません」と気を利かす場合もあるだろうが、これでは助かる命もなくなってしまうといった最悪の結果を作る。

阪神大震災の時、避難所や活動現場へズカズカと入って来るカメラや記者を避ける人も多く、「人が気にするような格好をしていることに気遣えよ」と、文句を発する者も多くいた。


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