Diary 2012. 4
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4月1日 (日)  エイプリールフール

今日は何も仕掛けず、何も仕掛けられなかった・・・

何か残念だ。


4月2日 (月)  店仕舞い


昔から我々は、見える危険を見失い、見えない危険に怯えて生きて来ている。

放射能汚染や狂牛病のように、殆ど直接の被害者が出ていないにも関わらず、見えない危険には過敏に反応する。

一方、昨日の駐車機に3歳の子供が挟まれて亡くなったという事故は、当の母親が機械を操作している最中に起こった、なんとも痛ましい事故で、その子の親は自暴自棄になり自分たちを忌まわしめるしかないだろう。

何でもない物を、人が買っているのを見てつられて自分も買ったり、並んでいるのを見て並ぶ人もいるように、自分で物を見る目を失っているようだ。

最近よく見かけるのが、ガードレールの無い歩道を、よちよち歩きの子供を連れて歩く親が、手は繋いでいるものの、子供が自動車側にいることだ。

案外携帯メールに気を取られて、子供を無視ではないが、忘れている親もよく見かける。

注意はすれど、そういう親に決まって「わかっています」と怪訝な顔をされるのが落ちだ。

「店仕舞い」と聞くと、「もっと続けて欲しかった」とか「最後だから行っておこう」と詰めかける人の心理もよく分からないものだが・・・。


4月14日 (土)  神戸紀行「松竹座」

昭和は、かの松竹グループが神戸の新開地を席巻していた時代だった。

「パチンコ松竹」「松竹映画館」「松竹ボーリング場」などなど、娯楽施設の殆どを松竹が牛耳っていた。

その中でも落語に漫才や手品を披露する、お笑いの殿堂として「松竹座」という立派な建造物が建っていた。
(「花月」と同じようなもの)

松竹座へは僕が幼い頃から祖母によく連れて行って貰った思い出がある。

「暁しんミスハワイ」に「フラワーショー」「ラッパ久丸」「若井ぼんはやと」などの松竹の芸人に加えて、当時新人だった「横山やすし西川きよし」も吉本興業から呼ばれて出演していた。

「ええとこ、ええとこ聚楽館(しゅうらっかん)」がキャッチフレーズの新開地本通りだった。


その新開地本通りの南端にある映画館「Cinema KOBE」(旧シネマしんげき)は、新開地の映画館、東映、東宝、松竹に聚楽館らが阪神大震災以前に辞めていったので、本通りでは最後の映画館になってしまった。

エジソンのキネトスコープが映画として神戸に上陸し、花隈などで上映されたと記述にあるが、僕の記憶では芝居小屋に劇場、寄席、映画館などが立ち並ぶ新開地が神戸唯一の娯楽の殿堂だったには違いない。

その新開地の最後の映画館Cinema KOBEさんと縁があり通っていたが、映写技師で経営者だった「三幣浩一さん」が昨夏60年の映画人生に別れを告げられ他界したこともあって、いろいろな角度から映画館の温存に僕も協力することになった。

今回はそのCinema KOBEで映画以外の寄席を20日に開く運びになったので、寄席の幕間に僕が蓄音機で100年ほど前の流行歌や漫才を演奏し、古き良き時代の再現をさあせて頂くことにもなった。

出し物を選んでいる時に出てきた初代桂春団治の「親子酒」は、今回Cinema KOBEのチャップリン寄席に出演される桂雀三郎さんの出し物となんと同じだった。

非常に楽しみだ

(下の画像は初代桂春団治とCinema KOBEの前でチャップリン寄席の蓄音機コンサート用のレコードを選んでいるときのもの)

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