この年表は、ラジオ関西(AMKOBE)のリスナーの立場で、当時を懐かしく思い出し制作したものです。関連ページへのリンクや、関連する放送界の出来事も追加していく方針です。編集の途中、感じた事は、「テレビやFMをめざし、多くのテレビ局設立に寄与した技術力と功績」「その後のAMラジオ単営局の苦悩」や「地域に密着した頑張り」に尽きるのではと思います。特に、この資料は現在制作中であり、広く皆さんのご指摘を受けようと思い公開しておりますので、どうぞ良い情報をいただきたく、ご協力をお願いいたします。特に新聞記事等の資料があれば非常にありがたく思います
なお、私自身昭和30年代の生まれであり、昭和30年代のことは、先輩ファンの方々からお教えいただいた情報などを基に、私自身が文献調査で確認したものもあります。また、私自身が放送で聞いたものをメモしたものも同様に確認をしていますが当然完璧なものではありません。最近大学の研究に使用したいという方のメールも受けますが、私自身文献資料やラジオ関西社史ともいえる50周年記念誌、また、神戸新聞社史、関西テレビ10周年記念誌などを参考にさせていただいたものであります。したがって、ラジオ関西の公式発表のものとはいくつか異なるものがあります。たとえば関西テレビとのステレオ放送実験などでは、関西テレビの方が古い例もあり、そちらを記載したものもあります。あくまで、ファンによる研究なので、詳細を調査されたい方は、図書館などで参考文献をごらんいただきたいと思います。なお、この件で、くれぐれも関係機関に問い合わせなどは謹んでくださいますようお願いします。
1949年9月 オリエンタルホテルで第1回設立準備会開催(9/10) 神戸商工会議所が事務局に
1951年4月 放送局の予備免許 JOCR1490kc 1kWの指定を受ける(4/21)
1951年7月 日本民間放送連盟発足(7/20)神戸放送は即日加盟
1951年8月 神戸放送株式会社(現在の株式会社ラジオ関西)創立(8/21設立総会、8/22登記)
1952年3月 本免許を受けサービス放送開始(3/21)、開局前夜祭を神戸新開地の松竹劇場で開催(3/30実施録音したものを3/31放送)、開局50年史によると、司会は、トニー谷
1952年4月 ラジオ神戸(JOCR 1490kC 出力1kW)開局
民放初の「プロ野球中継」(7/15) 「電話リクエスト」(12/24)
当時の周波数表現のKcはキロ・サイクルと読む。現在の周波数Hz(ヘルツ)と同じ意味である
1952年10月 テレビ免許を申請(1954.12却下される--50周年記念誌より)
1953年5月 他局に先駆け「プロ野球ナイター中継」(5/10 西宮球場 阪急対南海)
1953年8月 周波数560kCに変更(8/1) 560kC 1kw(神戸・須磨)
ダイヤルが右端から左端に変更となるが、これは周波数割り当て政策上、将来高出力免許になる放送局には単独の周波数を割り当てることにしたのではないかと思われる。たとえば、現在の但馬局の周波数(1395kHz1kW)では、複数の小出力局が免許されているが、高出力の場合は夜間混信が考えられる
1953年10月 昼間の出力3kWに増力、夜間は1kW
1954年3月 出力3kWに昼・夜とも増力(3/25) 560KC 3Kw(須磨)
1956年5月 神戸新聞会館落成記念番組公開録音(西條凡児・海原お浜、小浜が出演)
1956年5月 テレビ免許再申請(神戸放送単独申請)
1956年7月 ナイターコンサートを西宮球場で開催(3万2千人入場--1965年まで続く昭和30年代の関西での有名行事)
1956年8月 FM放送局免許第1回申請
1956年12月 テレビ免許を、神戸放送・京都放送合同で「近畿テレビ」として申請
1957年6月 関西テレビジョン放送と近畿テレビは提出中の申請を取り下げ、合同して「大関西テレビジョン放送」を大阪市に提出(関西テレビ10周年記念誌より)
1957年8月 「大関西テレビジョン放送」に予備免許JODX-TV8ch
1958年1月 「大関西テレビ放送株式会社」設立 「神戸新聞社長(神戸放送社長)が大関西テレビ放送株式会社副社長に就任」(神戸新聞社社史80周年より)
1958年7月 「大関西テレビ放送株式会社」が「関西テレビ放送株式会社」に社名変更
1958年8月 「関西テレビ放送株式会社」が開局、関西TVもFM放送局免許申請へ
1958年12月 関西テレビ、神戸放送(現ラジオ関西・AM神戸)、大阪放送(ラジオ大阪)、京都放送(ラジオ)の4社によるステレオ実験放送(12/27--関西tv10周年記念誌より)12月31日には東海大学FM多重実験放送が開始されており、これが後のFM東京の系譜になる。関西の放送局は、関西テレビ設立を機会に、姻戚関係ができたような状態であったためこのような対応が可能になったのではないだろうか。なおラジオ大阪はこの年8月の開局で、関西テレビはフジ産経グループと阪急・東宝グループとの縁が強い。このことは、この時代の放送局の相関関係を推察するのに参考になるものである なお、関西テレビ開局時の資本構成では旧近畿テレビに30%、阪急35%、産経35%で、産経・阪急は単独では10%以下となっていたようだ。関西テレビの技術や制作もNHK、TBS、CBC、神戸放送の全面協力で研修と関西テレビ10周年記念誌(P13)に明記されており、当時の神戸放送のレベルの高さが伺える。また、ラジオ関西の50周年記念誌にも関西テレビへの10名の社員出向が示されている。しかし、神戸放送は、当初からテレビを意識していおり、その後も1959年3月に姫路市にテレビジョン放送局の免許を申請するなど、往年のパワーの凄まじさには想像を絶するものがある。それが1960年(昭和35年)の社名変更で、神戸放送からラジオ関西となるが、これは、増力による広域化の意味だけでなく、テレビへの進出が難しくなり、そのテレビ局もFMラジオ局開局を狙っていたという時代背景もあるのだろう。
当時のラジオ神戸は須磨海岸に平屋の局舎と送信アンテナがあったようだ
サービスエリアの拡大には増力と良好なアンテナの条件が必要になってきた
・参考事項 1958年(昭33) ラジオ大阪開局 1959年(昭34)和歌山放送開局
1960年1月 株式会社ラジオ関西に社名変更 出力10kWに増力
1960年2月 送信所を淡路島(津名郡淡路町)に移転
「歌声は風に乗って」が始まり、電話リクエスト黄金時代へ
開局の年のクリスマスイブの日「ロイエルドリッジ・スターダスト」でスタートした電話リクエストは同局の看板番組となる. 野球中継は先駆けたものの阪神戦を中心とする在阪局との競合問題もあり、プロ野球ではパリーグの阪急の試合が多かったようだ。(現在のオリックスへの系譜)これは、関西テレビ設立に関わった縁もあるのだろうか--昭和30年の「ラジオ神戸ナイター」は、全試合パリーグで、西宮・大阪・日生・甲子園には放送ラインも設けられるが、当時の阪神の企業ライバルといえば阪急、阪神は朝日放送と親密な関係であり、ラジオ大阪は近鉄、神戸放送は必然的に阪急重視になってしまう。電話リクエストもナイターオフだったものが、昭和40年以降は、ナイターをやめてすべて電話リクエストとなり、音楽局の色彩を強めていく
日曜夜7時の「モナ電話リクエスト(だったと思う)」から、毎晩7時からの「7−7電話リクエスト」に変貌する。勿論毎晩7時からということはプロ野球を中継しないことになる。後年同じ兵庫県のサンテレビが阪神戦を中継するのを売り物にしていたのと比べると複雑な問題を感じる。ただし、テレビは東京発の通常番組の都合もあり、野球は放送したくてもできないという全く別次元の悩みがあり、これを目に付けたのがサンテレビのうまいところであったといえるでしょう。
1967年9月 さんちかサテライトスタジオ開設
サテスタでは、ハモンドオルガンのジャズピアニスト小曽根実さん(読売11PMで有名・小曽根真さんの父)の番組や、木村忍さんの「サテライトジョッキー」、鶴光・鈴木美智子などの「サテスタで逢いましょう」などの番組があった1968年3月 神戸市須磨区行幸町に社屋完成 国道2号線沿い、レストイン須磨のボーリング場の看板が目印だった
この頃からNHK-FMが放送・ステレオにもFMが受信できるものが現れる1969年5月 兵庫県県域放送UHF局としてサンテレビが長田区で開局・アナウンサーや技術関係ではラジオ関西からの移られた方が多かったと聞く(後日発行されたラジオ関西50周年記念誌では最終的に25名とあり、その影響で送信所を無人化するなど思いきった技術にチャレンジする。
・参考事項 1970年(昭45)4月 FM大阪・FM東京開局 民間放送の第1期FM開局
1971年11月 出力D(指向性)20kWに増力 従来はD10KW
当時の新聞報道によれば、郵政省は中波を広域用・県域にはFMを切り替える方針として、中波ラジオの電力を全国的に増強する方針とした。当時は中国・北朝鮮などの混信がひどく、ITU非加盟国で調整もとれないことなどがその背景にあったようだ
ちなみに 他局の増力状況は、NHK第1 100Kが300K 朝日・毎日・大阪は 各20Kが50Kに 近畿放送が10Kから20K 関東では、TBS・文化・ニッポン放送が各50Kから100K ラジオ関東が10KからD30K 名古屋はCBC・東海ラジオが各10Kから50K 福岡RKB・九州朝日が10Kが50K(単位:W)に増力したという。
すなわち、それまでラジオ関西は、名古屋や福岡の一流局と同格の免許電力(10KW)だったということである。細かいことをいえば同じ10KでもD10Kの方が効率の良い送信も可能であり放送局免許のうえでは格上という感もある。逆にいうと、この大増力以後に増力したのは、ラジオ関東ぐらいであり、この71年改訂の時点で差をつけられてしまったということになる。
このように、東京オリンピック(昭39)〜大阪万博(昭45・1970)の頃の、いわゆる「電話リクエスト黄金時代」が、中波ラジオ単営局としての宿命的かも知れないがラジオ関西(第1次)絶頂期であったのではないかと思われる
1972年 4月 開局20周年 神戸国際会館から記念放送
奥田博之・鶴光はじめマナマナのメンバー出演・ポップカー(無線中継車)誕生を紹介したことも記憶にある
当時の番組「テレテレ三度笠」(小山乃理子・矢野泰三)・「遊児・笑児のおはようさん」・「円鏡のモシモシ歌謡曲」(NRN)・百万人の英語・大学受験講座(QR)このような時代背景の中、ラジオ関西に「海の見える放送局」というテーマソングが流れ出したのもこの頃である。チューインガムという当時小学生のグループであった。関連記事
この頃「7ー7電話リクエスト」から「ウイークエンド電話リクエスト」となり土曜7時からは三浦アナウンサーの担当であった。1977年 4月 開局25周年特別番組「すばらしき仲間たち」(第1部)他
司会・奥田博之 アシスタント吉田秀子アナ(当時入社早々?)ゲストは鶴光・昔話に花が咲いていた1978年 4月 「プロ野球中継」復活・RFラジオ日本・読売路線に
神戸発日曜午後1時(小林大作・加藤逸子)など1978年11月 周波数558kHzに変更
これは日本の放送局の周波数間隔(ステップ)が変更となり全中波局の周波数が若干変更になった「北野坂・風見鶏の街」が番組からレコードに
NHKの朝のドラマの影響もあり神戸の異人館や北野が注目されていた。そんな時代背景の中で 当時の朝のワイド番組「斉藤くにおのワイドワイド関西」の「今月の歌」で、当時デイレクターだった森下悦伸氏 (元ジローズ:現ラジオ関西専務) が作詞・作曲し、番組アシスタントをしていた浅尾寿美さんを起用しレコードを出した。1978年頃のことであった。 なお、「今月の歌」は、リスナーから歌詞募集するスタイルではなく、番組担当デイレクタの森下悦伸・今崎陽吉の両氏に斉藤邦雄さんが交代で作詞作曲したもの この曲は一時期、局のジングルとして採用され、好評を得るが、元のジングル・・チューインガムの名曲「海のみえる放送局」に戻っていった。
ジャイアンツナイターをJORF(ラジオ関東・現在のRFラジオ日本)からネットしたとき、当時のラジオ界での後楽園球場・巨人戦放送権問題などが絡み、当時のラジオ関西はNRNから脱退を余儀なくされ、「今日のニュースから」からもネット離脱・・
旭堂小南陵〜露の団六という知的お笑いタレントによる自前ニュース路線に発展してきました。朝の番組も西條遊児・笑児(西條凡児の息子さん・兄弟学士漫才でも有名)〜谷五郎(神戸大学在学中からお笑いブルーグラス活動・農協に勤めておられたのをラジオ関西が発掘・起用)路線も、楽しい話題の中にも知性が光るという「神戸が誇る」番組を自社制作される路線だったと思います
NRN路線離脱直後は、東京・銀座スタジオを開設「真夜中ギンギラ大放送」という
関西出身の芸能人で東京で活躍する方々を起用した自社制作番組を立ち上げました
九十九一・矢追純一・おぼんこぼん・あのねのね等、キー局まっさおの番組が立ちあがりました。2時間のナマ番組すべてが月〜土「東京銀座三愛」の1社提供というのも驚きましたが、当時九十九一はTBS系のパックイン(だったと思う)を降りたところで全国のリスナーを対象としたような番組になっていました。
当時は、ラジオ関西管理職アナだった奥田博之さんがフリーになり、読売系「2時のワイドショー」で全国ネットでブレイク、女性局アナの加藤逸子さんもフリーでFM東京の全国進出など、ラジオ関西ファンにとっては寂しくもあり、また新しく生まれた番組や「三上公也・岩崎和夫」という当時の新人アナが西島みえこや谷山浩子さんを相手に「ギャルギャル神戸」という番組を始めるなど期待と心配をしたことを思い出されます
ヤングコネクションポップアイランド
・参考事項 1982 (昭和57)年12月 広島FM開局
・参考事項 1988(昭和63)年4月 FM香川開局
・参考事項 1989(平成元)年6月 大阪の広域第2民放としてFM802が開局
・参考事項 1990(平成2)年10月 兵庫県域FM放送として兵庫FM放送(KISS-FM)が開局
KISS-FMは 当時 姫路1KW 神戸500W KISS-FMの神戸局の送信所設備はNHKの麻耶山送信所内にあり、設備はNHKと共用という特殊な形態である。神戸局の送信所を見る限りでは送信アンテナさえNHKと共用しているのではと思う。小規模のUHF-TVの中継局なんか(サンテレビのエンデイングでは、これぞとばかり出てきますね)では民放の共同送信が多いが、FMといえども大出力の本局まで(それもNHKと同じ)とは・・(豊岡等他地域も同様と思われる)、技術設備や報道は自前主義のラジオ関西と比較しても、外部依存の体質(報道部門や番組制作に局アナがいない等)はFM局に見られる現象であるが、兵庫の民放ラジオ2局の対比はコントラストがはっきりしすぎ強烈である。 コンテンツ・番組の独自性では、開局当初のKISSには秀逸なものがあったがJFN加盟後は独自性を喪失したと指摘するファンも多い。また、地域のコミュニティFM放送局とはラジオ関西は、「ラジネットひょうご」を結び番組制作等を行っているのも「放送局が増加した現在」の姿であるが、このKISS-FMができるまでは少なくとも、兵庫県のラジオ局というのはラジオ関西だけであったという訳でありその立場の変化も興味深いところである。・参考事項 1991(平成3)年7月 FM京都(α-STATION)開局
・参考事項 1992(平成4)年4月 FM徳島開局
1980〜90年代は、第2広域FM・県域FM開局が相次ぐこととなった。その結果、ラジオ関西の木元英治アナも広島FMへ、FM802開局では、ラジオ関西音楽プロデューサの流出・そして地元兵庫県にもKISS−FMと競合ラッシュの時代となった。そうした暗いムードの中、岩崎和夫アナの「アニメ音楽路線」は、AMラジオでの先駆け成功事例となったことや、神戸ジャズストリートが末広光夫さんのご尽力で発展したことは特筆すべきことであろう
この時代になると、AMラジオの広域化・拡大路線より、より地元に根付いた動きになる。近畿放送も「京都」に特化し、ラジオ関西も「兵庫」に特化する。ラジオ関西ではこれを「H宣言」という、キャッチフレーズを用いた。ヒューマン・ホット・ハート・ひょうご・ハーバー・ハーモニー、これらの頭文字のH宣言であったが、これは当時だけでなく現在、将来にわたっても的を得たものではなかろうか。当時の番組自社制作率とそのレベルの高さは他地方局の追随は許さなかったように思う。むしろ地方局といえラジオ関西リスナーには「キー局の先を行く」という誇りさえあったように思う
また、ジャイアンツ路線の関係からか、この頃から読売グループとの連携が多く、「三上公也の朝は恋人」に読売テレビの辛坊アナが、代行パーソナリテイとなったこともあった。
1992年5月 ラジオ関西 但馬放送局開局
コールサインJOCE 周波数1395KHz 出力1KW
開局の記念番組は「ドラ金小曽根カンパニー」(小曽根実さん)
当時の番組「ホットに語ろう(西條遊児・笑児 ギャラクシー賞受賞番組)」「海原小浜の太陽におはよう」「きいてごラジろ(サンテレビの村上和子さん担当)」 「CRジャンプリクエスト・ピーターパンクラブ(永井康之)」「神戸アフタヌーンクラブ」1994年10月 ラジオ関西の愛称「AM KOBE 558」スタート (2004年3月末まで続く)
AMKOBE 558はリスナーから公募した名称。賞金は558000円(周波数にちなみ)だった 1994年11月 送信所を津名郡東浦町に移転 関連記事
移転時の現地中継番組は「三上公也の朝は恋人」
1995年1月 阪神大震災で本社社屋地震直後から震災報道
震災時点の番組は能崎まゆみさんの「おはようラジオ朝一番」が中断、再開は6時の時報後「藤原正美」さんの声で・・ただいまの地震でスタジオが壊れています・・神戸市民が、ラジオ関西の電話リクエストの番号を広く知っており、リスナーからの安否情報を即座に受け付けられたのも、「電話リクエスト」のノウハウそのものであったはずである。ラジオ関西の安否情報が、事態の深刻さに比べ、明るく勇気づけられる放送であり続けたのも、過去の「自社制作番組」の優秀なタレント・アナウンサー・スタッフの力であったことは疑いの余地がない
1996年8月 8月8日末広がりの日 ハーバーランド「神戸情報文化ビル」に移転
当日の1日局長は神戸出身の女優浅野ゆう子
1997年4月 開局45周年統一テーマ「人・夢・未来-『架ける』」
2001年4月 オールナイトニッポン(NRN)をネット NRNは脱退のまま
2002年4月 開局50周年 多くの記念行事が行われる。
2003年1月 AMKラジオカーのチョロQ発売
2004年4月 AM神戸(AMKOBE)の愛称を廃止・ラジオ関西に戻る
2004年10月 JOCE 但馬放送局 1395KHz 豊岡送信所が台風23号による大規模水害の影響で停波。独自電源を確保し復旧を果たす。
2004年10月頃 新たな略称はCRKに・・一部放送で発表。ラジオ関西の封筒などにもCRKが記載される
平成23年10月更新
西川敏弘 jf3mxu@hi-ho.ne.jp