10月22日 (金)  和牛の「今昔の感」

和牛は、「黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種」の四種に分類されているが、日本で流通している殆どは黒毛和種だ。

その和牛や豚の食肉の流通過程は、生産者側と販売側の二つに分けられる。

生産者は「繁殖」「肥育」が専門で、牛(生体)を育てる役割が主となり、農家と兼業している場合も多く、もう一方の精肉や加工が専門の食肉販売業とは、「屠畜(とちく)」という行程が入ることで、「立ち牛」と「枝肉」とに分業されている訳だ。

牛を屠殺する者を屠夫(とふ)と言い、業界では屠場(とじょう)と呼ばれる食肉の競り市場で解体され、皮は皮革業者へ行く。

頭部や臓物や尻尾などはバイプロミート(副産物肉)と呼ぶ、いわゆるホルモン業者の手に掛かけられ、残った枝肉を我々食肉店が精肉するといった流れになっている。
(そこで出る牛骨や牛脂も、それぞれの利用業者へと渡される)

屠畜とは屠殺のことで、正に「殺生(せっしょう)」であるが、僕は一食肉業者として、敢えて屠殺の部分にはあまり触れないようにしている。

過去に「いのちの食べ方」という映画も作られた。

我々は、「何処の屠場の皮むきが上手な仕事をしている」とか、「あそこのホルモンはキレイな掃除(洗い)をしてるな」といった風に、専門職の者同士として、一目を置いているのだ。

しかし昨今の「産直ブーム」などのせいか、最近では畜産農家が直営する牛肉店や肉料理店も増え、「うちが育てた牛をうちの店で」とか、「この牧場で」とか、契約農家を持っていることを自負するようなキャッチフレーズで、食肉販売を展開しているようだ。

僕は子どもの頃から、「愛情を持って牛を育てる農家が良い」と教えられて来たし、また肥育農家の方は「自分とこの牛が売られていくときは、いくら事業と言えども切なくなるものだ」との声も聞くことが多い。

「べこ(子牛)から自分が愛情を注いで飼ってきた牛を屠場に送るときは心で手を合わせいる」と言うぐらいだから、やはり「自分が手塩にかけた牛だけは食べ辛い」という意味なのだろう。


僕は生きている牛を観る勉強はあまりしなかった。

「人間の為に全ての家畜は殺生を強いられているのだから、絶対に無駄なく仕事をこなせ」というのも祖父に教わったことだ。

古い食肉店は、必ずと言っていいほど、供養のために牛を祀っていた。

こんなことを言うと気弱に取られそうだが、「殺生」を境に営んで来た僕にとって、牛肉とは「枝肉」からが専門分野。

牛の出所や血統、農家の資質は気にするが、「どんな顔の牛だったのか」などという部分には触れないでおきたいといつも思う。

それゆえに、愛情込めて自分の手で飼った牛を「美味しいよー」と笑顔でお客さんへ勧めるのは自分には真似の出来ないことだと、生産者の小売り販売を見ていていつも感心する。