10月18日 (日)  阪神タイガースファン

(今年の阪神は終わったが)

「日本で一番メジャーなスポーツは?」と言えば、殆どの人が「野球かなぁ」と答えるぐらい、野球は国民的なモノになった。

その野球で「飯食っている」という人や「大好きだ」という人も、これまた一番多いはずだ。
推計すると国民の5人に1人が、何らかの形で野球と関わっているらしい。
すごい割合だと思う。

僕も野球が好きで、プロ野球といえば阪神を応援するうちの一人だが、長男次男とも当時のJリーグ人気でサッカーを選んだので、あまり親子でキャッチボールをする機会も無かったのが想像とは違ったが、長女が阪神ファンなのが救い。
「巨人の星っていうアニメがあるのに、なんで阪神の星みたいのが無いのん?」と嬉しいことも言う。


阪神と言えば、タレントの耕笑園てつやが「阪神優勝やー!」と叫ぶデイリースポーツ紙のテレビCMを4年もやっていたのに、それを無視か知らずか「阪神優勝」の四文字を登録商標に申請した人がいた。

またそれを特許庁が認可してしまい、阪神球団が権利を買うの買わないのという事態が起こったのだが、あれは完全に特許庁の認識不足が招いた騒動だった。

特許庁は「数ヶ月の公示をしている間、なんら異議申し立てが無かった」というが、そんな公示がどこであるのかさえ大半の国民は知らない。
僕もそんな文字が登録商標になることさえ不思議に思ったくらいで、まさに「特許庁の役人は血も涙も常識も無いのかよ!」と思った程だ。


僕が生まれて最初に知ったプロ野球選手は王、長島といったV9当時の巨人の有名選手たちだった。
(やはり巨人の星の影響が大きかったのだと思う)

その頃はまだ阪神、阪急、南海、近鉄といった地元球団をはっきり知らなかったからだ。

その後、小学生の高学年になって少しプロ野球も分かって来た頃、ジャイアンツに立ち向かう地元の阪神タイガースを見て、一気に阪神ファンの意気が自分の中に芽生えた。
それからというものは、甲子園に行っては阪神を応援するようになった。

近くで売っていた野球帽は巨人のロゴマーク入りが殆どで、阪神の帽子があまり売ってなく、阪神のロゴマークを別の黒い野球帽に自分で縫いつけてかぶっていた。
江夏、田淵が「黄金のバッテリー」と呼ばれ出した頃だ。

当時の甲子園の観客数は少なく、5年生の僕が一人で一年生の弟たちや従兄弟を連れて行って入れたくらいだ。

現在のようにヒッティングマーチも無く、応援団も少なく、専ら笛と太鼓で囃していたので、観客席からの声援が直接野手に届き、聞こえた選手が僕らに手を振って応えてくれたほどで、今よりもっと選手を近くに感じれて、よく声が枯れるまで叫んでいたのを思い出す。

応援のコールも野次そのもので、「ピッチャー交代!」とか「バッター交代!」と自軍にハッパをかけるようなものが多く、好プレーには拍手で迎えた。

実際に球場の阪神ファンが揃って声を合わせ出したのが、「7番サード掛布」のアナウンスに続いて、全くの自然発生のように起こった「掛布コール」が最初だったのも覚えている。

観客が一人二人とトランペットを持ち込み、スタンドのあちらこちらで「進軍ラッパ」を吹き鳴らし始めたのもその頃で、それが、現在の大声援のヒッティングマーチで甲子園を沸かす原点になったのだ。

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