1月15日 (木)  震災チャリティーといえば

有名な人は少ないが、有能な人はたくさんいる。

僕のような人生を送っていると有名人に接することも多々あるが、出逢って「良かった」と思える人は少なかった。

自慢になるが、僕の仕事上、その有名人たちを見ようと集まってくれるお客さんを喜ばせることが一番の目的なので、有名人になればなるほど「高額な商品を扱う」といった意味で気を使うだけであった。
だから芸能人に会えるからとワクワク、ドキドキしながら局や会場に入ったこともない。
ただ、「この人に遭えて良かった」と思った人は何人かいた。

その中の一人(一組)に「勝新太郎、中村玉緒夫妻」がいる。
世間的には「無法者」として賑わせた勝新太郎だが、その破天荒な人柄に隠された「芸能人生」があった。

勝はデビュー当時から「座頭市」などで銀幕スター街道まっしぐら、同じく日活のスター石原裕次郎と私生活で懇意にしていたのは誰もが認める仲。
勝と裕次郎の二人が高級外車で東京の街をカーチェイスしたなどは有名な話だ。

昭和30年代、勝が神戸に来てヤクザが開帳する本引きの賭場で、当時300万円程の負けを残したことがあった。
いくらスターで有名人だからといっても、そこは本職の極道たち、ツケをそのままにして勝を帰す訳にはいかない。
勝本人に借金のカタを置いて帰るよう迫った。

そこで勝は自分の経営する会社の約束手形を切ったのだが、浮き沈みの激しい芸能プロダクションの銀行手形一枚では信用ならずと、他者の裏書き(保証人)を求めた。
その時、勝がその場で裕次郎に電話して裏書人を頼み、それを裕次郎が承諾。
勝は自分の手形を、横浜まで裕次郎の裏書きのサインをもらいに使者をとんぼ返りさせ、事なきを得たというエピソードがある。

振出人が勝新太郎で、石原裕次郎が裏書人の約束手形がもしも現存したなら、さぞ「お宝」になることだろう。

一方、映画「悪名」の名コンビで大映の一時代を築いた、田宮二郎とも「豪遊」を張り合う仲だった。
金に糸目はつけない二人の豪遊振りの逸話も数多く、多大なマイナスを残し、当時「栄華」から脱却出来ずに、田宮二郎はライフル自殺、勝プロは倒産に追い込まれた。

そりゃそうだ、なんせ勝は毎日12時で消灯する東京タワーを見て、妻の中村玉緒に「暗くなってみんなが寂しいから、東京タワーの灯りを点けときなさい」とマジで言うぐらい、世間には無頓着なのだから。

そんな勝新太郎夫妻と僕は、勝新太郎が亡くなる1年前に開いた、ワールド記念ホールの震災チャリティーイベントの現場で会ったのだが、
勝は「自分が癌に冒されている」との発表を控え、付き人に支えられながらリハーサルをこなすという、フラフラの状態でいたにも関わらず、落ち着いた優しい振る舞いを現場のスタッフだった僕らに見せていた。
今考えると、あのとき労るようにずっと夫に付き添っていた玉緒夫人の姿は「おしどり夫婦」というだけではなく、勝の病気を庇ってのことっだったのだろう。

その玉緒夫人が、他の出演関係者への挨拶に追われ、「ちょっとだけよろしいでしょうか?」と勝の付き添いを離れるため、僕に頼みの言葉を告げた。
もちろん何も知らない僕は「どうぞ」と(当たり前だが)交代した。

お付きの者も全員腹ごしらえに行って、勝新太郎一人の控え室の前に僕は居た。
その時部屋の中から「おーい玉緒」と妻を呼ぶ勝の声が聞こえてきた。
僕がノックして控え室に入り「玉緒さんは今、森繁さんのところへ行ってます」と告げると、どこか寂しげだったが、にっこりとまるで人を包み込むような笑顔の勝新太郎が鏡の前に座っていた。
シワになるせいかズボンは履かず、白のタキシードの上着姿でメイクを整えていた勝は僕に「すまないがパンか何か食べる物がないかな?」と言った。
テーブルの上を見ると弁当の折りに手はつけてなかったが、今から考えると癌闘病中の身だ、食欲が無かったのも無理はないだろう。
「分かりました、すぐに用意します」と応えた僕に、またにっこりと笑顔で少し恥ずかしそうに頷いてくれた。

丁度僕が部屋を出たとき、玉緒さんが「すみませんでした」と帰ってきたので、「勝さんがパンを食べたいとおっしゃってたので、誰かに買いに行かせますが何がよろしいでしょう?」と聞くと、「メロンパンか何かあればお願いします」と丁寧に首を傾げながらこれまた夫に負けず劣らずの笑顔で言った。
(このとき僕はこの夫婦の「役」ではない、中からにじみ出る人柄の良さを感じた)

この後も色々とあったのだが、こういう舞台裏の話はこの辺にしておこう。